(讲本)八宗纲要钞(下)(19/22)
学の名匠であつたので、凝然はこの円照について八宗を学んだが、更にまた律を证玄と净因に、天台と密教を圣守に、华严を宗性に受け、のちまた京都へ出て禅に参じ、净土を长西に、真言を真空に听き、八宗はもとより孔老诸子百家の说にも精通した。かくして二十九才のとき『八宗纲要钞』二卷を着し、三十七才のとき东大寺舍那殿で华严を讲じている。三十八才のとき円照没するや、そのあとをついで戒坛院に住し、八宗のうち、特に华严を弘め律の必要を说き、讲経と授戒に遑がなかつた。後宇多天皇は自から南都に幸し、彼について菩萨戒を受けて、国师の号を赐り、後に彼は宫中に召されて『华严五教章』を讲じたといわれる。元亨元年(一三二一)九月五日八十二才で戒坛院に寂し、鹫尾山に葬られた。
凝然は着书极めて多く、华严経探玄记洞幽钞一二〇卷、华严贤圣章六〇卷、五教章通路记五二卷、律宗琼监章六〇卷、梵网戒本疏日珠钞五〇卷、四分戒本疏賛宗记二〇卷、法华経疏慧光记六〇卷、维摩経疏庵罗记四〇卷、胜鬘経疏详玄记一八卷、净土教诲章四〇卷、净土观音记二〇卷等、その数一百六十余部一千余卷と称せられる。现存せるものの大部分には、その奥书に、制作の年时.场所及び动机等が记されてあるので、それらによれば、彼が生国の伊豫以外には余り南都を离れず、ひたすら着述に专念していたことが窥われる。
二
『八宗纲要钞』は、その卷末に
文永五年戊辰正月二十九日、於豫州圆明寺西谷记之。(以下略)
华严宗沙门凝然 生年廿九
と记されているので、鎌仓中期の文永五年(一二六八)凝然が二十九才のときの着作であることは明了である。上下二卷よりなり、鎌仓时代の仏教书にその例の多い问答体の形式で书かれている。まず序论では、初めに仏教の法门は数多いが、[火帚]するところは二藏と三藏を出ない旨を明かにし、次いで三国の仏法流传の历史を略说して、八宗の分派とその弘伝を述べ、日本伝来の宗派が八宗であることを说いている。而して本论においては、俱舍.成[宋-木+(大-一+三)].律.法相.三论.天台.华严.
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